私が防衛大学を辞めた訳編
この辺の話はあまりにすざましくて書きづらかったかがここのHPを見てなにも私だけが地獄を見てきたのではないのだと思い書こうと思います.
まず両親との格闘の日々があった。私が防衛大学を辞めようと心に決めたのは私が陸上要員に決まったからだ.11月くらいに指導官との面接で9割方陸上だと告げられた.後の1割はHさんと言う人がいてその人が留年する可能性があるからだった。その日から私は両親に自分は防衛大学を辞めると言った.母親は「そんなことは許されない.あなたは人間じゃない行為をしようとしているんだよ。」といった。世間体をみこしての発言だった。この防衛大学というものは知り合いなどこねがないと入れない.とくに2時面接では。その人にどう説明したらいいのって言われた.わたしは「例え陸上でやっていってても私には銃をだれかに持ってもらわなくてはならないし自分の無力さを実感して胸をはっていきていけない。つねにじぶんは役にたたない人間だと思ってしまう。」その後何度も山に登って途中考えた.例え棘の道だとしても自分を曲げてまで生きていようとはおもはない。
わたしは今も山には神が住むとおもってる。空気が違うんだ.そこで自問することは自分にとって正しい道を示すのに役にたつと考えた.あとは母親を説得しなければならない。電話で一生懸命説明した.でも「あんたは弱いからそんなことを言うんだといい、もしお母さんなら必死でついていこうするよ。」というばかり。わたしも「この防衛大学での経験はお母さんにはわかんない。もしお母さんが真冬の富士山に登ってくれれば言うことを聞くよ。」といったが実行はしてくれなかった。あげくのはてには私とは電話してもらちがあかないと言い、Sさんに電話をかける始末.Sさんは私の所にきて「やめたいならあんたのおかあさんにめちゃくちゃに言うよ。」といったのでわたしも仕方なく了承した。Sさんはわたしのお母さんに走るのが遅いのに普段から練習しようともせず、生活も手をぬいてめちゃくちゃな状態。」と母につげた。実際私は普段そんなに走らなかったが部活では走ってたし、生活も私なりに精一杯やっていた。手を抜いたことなどない。その後お母さんから電話があり「自分の娘として悲しい.しょせんあんたはそんなもんなんなんだ。」というので「私のいうことよりSさんのいうことをしんじるの?」ときくと「あんたのいうことは一切信じられない」と言う.そうこうしているうちに3月になり春休みとなった。私はどうすればこの防衛大学を脱走できるかを考えた.
好チャンスだった。完全失踪マニュアルを買った.春山に登るのも辞退した。指導官にいわれた。「もし帰校点呼のとき逃げてたら、俺はおまえを許さない。おまえのせいでどれだけの人に迷惑がかかるのかかんがえろ。」と。信頼していた指導官だったのでこの人を悲しませるくらいならと思って脱走は断念した.大学には行きたかった.どうしても。今やめてはどんな職にもつけない。読売新聞の奨学生制度を受けてみた.新聞配達をしながら予備校に通えるという制度だ。親のサインは友達にしてもらい保証人の判は親戚の人の了承をとった。しかしそのとき私は19歳になったばかりで未成年だった。当然親のもとに連絡が行き親はそんな話聞いてないと却下された。
春休みも終わり2学年となった。カッター訓練の準備の為毎日ミーティングが開かれた.ホウキの柄にペットボトルの持つところをつけダンボールを切り漕ぐ部分をつくった。これで「いーっち、にーい」という掛け声の元に漕ぐ練習をする。カッターの基本的な試験があって私は成績が悪くほかの成績の悪いものの答案と一緒に窓から捨てられた.おまえはクルーに必要ない、やる気がみられないといわれて教室の外にほうりだされる者やビンタなどは日常的にあった。カッター訓練とはこれを乗り切らないと防衛大学学生と認められないものだった。これが終わればタバコも吸えるし制服なしで外出もでき外泊もできる。カッターノートをクルー長と交換するんだが私は学校をいかにしてやめるかということが頭のなかにいっぱいでほとんどおなじことしかかけなかった。3大隊が好きなので3大隊のためにがんばります。としか。ほかのものは自分がカッターを漕ぎたいことをアピールする為に漕ぎたいというフレーズで1ページ全部を埋めたものもいた。やっぱり学校を続ける気のない人間がカッターを漕ぐのはやる気が伝わんないんだって思った.
最後の手段にでた。死。完全自殺マニュアルを買って勉強した。いままで死のうと考えたことがなかったのであんまり知識がなかった。とりあえずタバコで。苦くて飲めなかった.本気で死ぬ気はなかった。未遂で終わりたかった.その間親に電話した.「辞めさしてくれないなら死ぬわ.」と。母親は「死にたかったら勝手に死んでくれたらいい。」といった。父親はずっとなにも言わなかったが「お母さんをそんなにかなしまさないでほしい」といった。父親の一言が心にしみた。そのころにはただ母親と電話するだけで涙がこぼれた。しかし一度決心したことを曲げるわけにはいかない。つぎにマネキュアの除光液1本。らりっただけで終わった.そのあとトルエンを飲んだ.ちょっと飲むだけで3時間ぐらい意識を失った.楽な死に方なんてない。私にはリストカットや飛び降りなど考えるだけで涙がとめどなくこぼれるばかりだった.でもほかに道はない。なんどか試しているうちにばれてしまった。病院には連れてってくれなかった.もし病院にいったら薬やってたことがばれて任意退校じゃなくて懲戒免職となり以後公職につけなくなるといわれた。そんなに苦しくもなかったので,親に指導官が説得する間何週間か部屋で帰る準備をしていた。一応退職ということになり退職記念品がもらえた。
4月末日実家に帰った.母親はずいぶん怒っていた.一生かけて分かってもらうしかないと私は思っていた.母親の言葉にはずいぶんきづついた.いまもなぜか母親には本当のことを話せない。すべて偽りの自分しかみせれない。あのときのことがあるからかもしれない。しかし感謝の気持ちは持ちつづけてる.予備校にも行かせてくれ、今の大学にも行かせてくれた.実際向いてない大学だが我慢するしかない.もう人生やりなおすのは1度で十分だ.非常な労力を要する.
わたしのかわりに海上要員になったHさんはその後四学年の夏の訓練のときに妊娠3ヶ月ということが隠しとおせなくなり大学を辞め、相手の男性と結婚し今は主婦をしているそうだ。
わたしの親に狂言をいったSさんはちょうど私が辞めてから1ヵ月後、S君と屋上でSEXをしているというデマがながれ上級生からのプレッシャーで大学に残れなくなりSEXをしたという事実を認めたくがないために2人で駆け落ちした。ちょうどそのころSさんから私に電話があった。自分は防衛大でしっかりやってると.見つかったのは大阪だった。S君はSさんの両親の前で今後一切Sさんとはかかわらないと誓わされたそうだ。電話も手紙も禁止された。
これがわたしの体験した防衛大学。現実の世界とはかけ離れた世界.規律と人間を育てる世界。戦争のない現在においてこれほどいい人間の多い世界はないのではないだろうか?自分が殴られたりしばかれたりした覚えのない人間は人の痛みがわからない。結婚相手として自衛官はお勧めである。掃除、洗濯、アイロンがけ全てできる。しかも女性に暴力をふるう男は最低だと考えている人も多い.許容力のある人が多い.特別職国家公務員だしまあまあの生活の保障はある。ゆえに勧めるのである.ただし風俗に行く人は多い.とくに海上要員だと1年くらい艦から降りれないから寄航先で風俗にいくらしい。 これで終わりにするのは残念だがもう過去のこと。新たなる未来のためにも終わりにしよう。 |