誕生日の富士山登山編(その1)
Mt.Fujiに登ったことのある人は無数にいるでしょう。しかし、厳冬の1月13、14、15日に登ったことのあるひとは果たして何人いるでしょう。もし登ったことのある人がいたらご一報を。一緒に登りましょう.山岳部ぐらいならいそうかな。そう、わたしも山岳部に所属しておりました。防衛大学は運動系のサークルに入ることが義務ずけられていてまああんまり厳しそうじゃなかったので入ってました.防衛大学中、最も厳しいクラブは少林寺憲法部です。通称リンジャと呼ばれており忍者とかけております。このクラブの練習は走ること、遅いと後ろから飛び蹴りをくらう。懸垂は腕を曲げつづける懸垂で腕を下ろすと蹴りがとぶというしばかれて強くなるというクラブです。ほかに厳しいクラブとしては合気道。これは合宿の時死にかけるクラブです。防衛大学は丘の上にたっていてその周りに3000段のポンド階段というものがあるのですがその階段を人をおぶって何度も何度も上り下りをします。合宿途中で1年はみんな血尿が出て入院して合宿は中断されるみたいです。
わたしの山岳部はちょっと過激程度でした。しばきもなかったですしね。1月の厳冬のなか御殿場駅から自衛隊のジープに乗って富士の新五合目に夜到着しました。駐車場でその日は野宿しました。
翌日、快晴25キロのザックを背負い頂上に向かって登りはじめました。富士山の裾のほうは雪もふかくかんじきなるもので雪を横に掻き分けながら進みました.真っ白な山です。冬は.本当は山開きと言うものがあり冬は登ることができません。しかし特別に気象庁の許可をとって登っています.気象庁の人も風速とかを観測するため定期的に頂上に登るそうです.立ち入り禁止というチェーンをまたいで登りました.なぜかアメリカ人がサンダル、タンパンで登ってました.まあ頂上までサンダルタンパンでいけたらすごいと思うけど.しばらくしてアメリカ人はいなくなりました。引き返した模様です。そうこうしているうちに太郎小屋に昼近くに着きました。滑落停止について習いました.滑落しかけた時は、斜面にアイゼンのついた登山靴を蹴り込み、同時にピッケルを斜面に差し込む。命綱をもっている上にいるものはゆるんでいく命綱にピッケルを迅速に差し込むということを何度も練習しました。晩御飯を食べてその日は寝ました.晩御飯はレトルトのカレーで、α米(お湯をいれて15分すると炊き立ての米のようになるもの)でした。
(誕生日の富士登山)2
太郎小屋で一夜をすごした。男女混合だがなにもないよ。大体自衛隊員というものが硬派がおおい。大学入学まで女性関係がない人が多いのは変ではないか。だから女性にたいしての力関係がわからないんだよ。今現在お国の為に自衛隊にはいろうと思った人ははじめの段階ではいほとんどいないだよう。だが時がたつにつれ女房家族を養うためにはここで生き残るしかないと考えが変わる.航空希望していて、陸上にまわされて隊員もどうせ一番最初に死ぬのは航空自衛官なんだから。と割り切ってしまう。PKOをご存知でしょう。PKOに運良く派遣されると支度金100万と任務を遂行している間の給料は倍がけとなる。女房も子供も大喜びだ.空港で涙ながらに再会するのもうなづける。もっともPKOの志望書にはみんな熱望と記入するようだが。 その日の夜は非常に寒く眠るところではなかった。ずっと寒さに絶えていた.ようやく朝がきた.朝飯は袋詰めのラーメンときまっていた。わたしがつくってあげた。汁の量が少なく塩焼きそばだと文句をいっていた。 太郎小屋、思いのほか吹雪がきつくて小屋自体が雪でうまってしまった。上級生がピッケルの先で必死にこじあけようとしたが無理だった.とにかく火をたき内部をあたたかくした。ようやくドアをあけることができた。
誕生日の富士登山編3
ようやく太郎小屋のドアが開いた。このまま生き埋めにでもなったらどうしようって思ってたけど。この日は頂上にアタックする日だった。そしてわたしの誕生日である1月14日だった。記念すべき19歳の誕生日をこんな猛吹雪の富士山で祝うのは一生のうちにそう何度もないだろう。荷物は太郎小屋においてアタックザックを背負って頂上をめざした。15分登って15分休憩のペースでひたすら頂上をめざした。こうして山に登ってるとふと人生について若いながらも考えてしまう。山に登っていて思うことだが山も人生も同じなのではないかと。苦しい思いをすればするほど体に耐性ができこの長い人生もいつかは終わると感じそして振り返ればなつかしさすら感じるそんなきがした。強烈な思い出ほど後の人生において同じように苦しいときふと思い出しそれをばねに生きることができる。過酷な訓練は全ての人にとってひつようなのではないか。そんなことを考えているうちに猛吹雪が吹き荒れ始めた。初心者のわたしは両足にアイゼンをつけ片手にピッケルをもっていたが、片足を上げるごとにふぶきに吹き飛ばされそうになった。一度滑落したがNという上級に滑落停止をしてもらいました。急死に一生をえたって感じでした。
1年後私は大学に合格しテレビをみていた。そこに「防衛大学山岳部1名死亡他3名重傷」とのニュースがやっていた。ほかの番組ではやらず次の日の新聞にすらその記事はでてなかった。ある友人から事情を聞いたところ五竜岳という春山にアタックしてたそうだ。春山というのは雪崩がおきやすい。ある1年生が滑落したのを2年生が止められなくて皆で滑落していったそうだ。皆木にぶち当たって止まった。1年生は不幸なことに頭を打ち意識不明の重態だった。他の3名も骨折」をしていた。肋骨などを折りその折れた肋骨が肺に突き刺さったりして重態だったのはわたしと一緒に1年のとき富士山やその他の山に登った人だった。結局自衛隊が救助したが1年の子は助からずそのあと自衛隊の輸送機で故郷の沖縄に遺体がはこばれたそうだ。半旗がかかげられ「捧げつつ」が行われた。肋骨を折った2年の人は1年留年したった一人で山岳部を5年間つづけた。今は陸上自衛隊にいる。わたしはその場にいた可能性がある。そのまま防衛大学をつづけていたら。どうなっていただろう。
武器戦車戦闘機護衛艦編 まずは武器から 64式小銃・・・自動小銃のこと M16・・・エヌシックスティーンと読む。これも自動小銃 バズーカ砲・・・弾がおっきい重量30キロくらいで人が持ち運びできる もの
おつぎは戦車だ
98式戦車(さだかではない)に乗った.時速80キロまでとばせる。のりごごちはジェットコースター。丸太もなげたおすなげたおす。泥道もなんのその。しかし内部には3名までしかのれない。操縦はオートマ。なんじゃそりゃ。私たちは戦車の天井にのった。これはとっても気分爽快だった。やたらとカーブとかしてくれた。 ほか新型の戦車としては水にある程度までしずんでもOKな戦車があった。 ほか戦車ではなくカーゴと呼ぶ人を30名くらいのせられる輸送車がある。これは大型免許はいらなくて普通免許でも運転できるらしい。 陸上自衛隊の唯一の攻撃型ヘリコプターはアパッチという。銃砲が両側についていた。これは機動力となりうる。 陸上自衛隊でもパイロットになることができる。それはヘリコプターのパイロット。通称ヘリパイという。あと輸送機のパイロット。
最後に戦闘機
戦闘機は輸送機とはちがう。輸送機には攻撃する大砲がないが戦闘機は攻撃する大砲がついている。 F−15・・・えふじゅうごイーグルと読む。日本にはこれが20台くらいあるといっていた。これは戦闘機。これに乗れるのは防衛大学T学年450名のうち15名くらい。まず1年のときにパイロット適正があるかどうか調べられる.通称P適という。これは視力がポイントで裸眼で1.2要求される。あとあくりょく35以上とか肺活量3500以上とか身体適正とテストのような心理適性がある。このP適は幹部候補生学校に入るまで毎年行われ卒業後、7年の厳しい訓練の末はれてパイロットになっても幹部のため2年くらいしかF−15に乗ることができない。パイロットになるなら幹部を目指さないほうが得策といえる。パイロットになれなかった人はレーザーなどの制御にまわる.日本領空の全ての旅客機、戦闘機、米軍基地の戦闘機に暗号をつけ管制塔のようなレーザー室でみはる。機密厳守というポスターがいたるところに張られていた.航空機の暗号は毎回かわる。F−151台を維持管理するのに整備士などおよそ30名ほどかかる。人件費も馬鹿にならないしし、1台何十億もする。 アメリカにはF−16があるらしい。
最後に護衛艦
日本には空母はない。しかしアメリカなどにはある。私が横須賀にいた頃 横須賀の米軍基地に入ることができた.防衛大学校の学生は自由に出入りできる。Independence号が滞在していた。これは空母。空母とは戦闘機を離着陸させることができるもの。この空母のなかには映画館 理髪店ゲームセンターなどが中にはあって隊員たちのストレスがたまらないように工夫されているよそうだ。だいたい、船にのったら1年くらい帰ってこれないんだからストレスもたまるって。よって一番規律に厳しいのは海上自衛隊. 日本には代わりに護衛艦がある。イージス艦ともいう。あさぎりとかいろいろな名前がつけられている。イージス艦には乗った.内部中央にはレーザー室があって攻撃命令がでると艦長が決断して攻撃ボタンを押す.あと魚雷もつかってた。食事はもっともおいしかった。とにかく長く船に乗っているとストレスがたまるので食事が一番の楽しみとなるのではないだろうか。米がとくにすばらしかった。幹部には1室あたえられるが、ほかの船員は5段ベッド、これはベッドとベッドのあいだが50cmくらいしかあいてない. 護衛艦にはヘリコプターが直陸できるようになっている。実際着陸するのをみせてもらった。通信機をつかって着陸していた。手旗信号もつかう。 横須賀には海上の一般自衛官の養成施設もあってそこの制服はセーラー服。 もちろん下はズボンだが。真っ白なセーラー服の生地に濃い藍色のラインがすてきだった。着てみたいっておもった。 海上にはP3c・・・ピースリーシーという。P3Cチャーリーとも呼ばれるものがある。これも乗った.これは翼のついたヘリコプターで機動力にとても優れている.P3Cに乗って東京湾一周した。快晴、眺めは最高だった.操縦にもマニュアルがあるらしく「なんとかよーし」と何度も連呼していた。そう、自衛隊はマニュアル社会でこうしたほうがもっといいのにといったことは通用しない.ようは融通がきかない。P3Cは北朝鮮からの不審船が日本領海ないにはいったとき追いかけていった哨戒機だ。記憶にある人もいると思う.ニュースではピーさんシーと言っていたがあれはまちがいだ。ピースリーシーだ。
隊歌コンクール編(その1)
1月×日中隊対抗で隊歌コンクールがあった。コンクールまで2週間期間が与えられた.その間2学年の方々が1年に歌詞やリズムを覚えさせる.昔は大声をだしてさえいればよかったのだが最近の傾向としては強弱が大切となっている。
夕食後、ミーティング室に集まり1年の小隊付きが「きょうつけ。2学年の方々に対し敬礼。」というと2学年の小隊付けに敬礼をする。私たちの中隊は非暴力な中隊だったため、三角すわりをして2学年の話を聞いた.暴力的な中隊だと空気いすとなる。
1曲目は同期の桜 1貴様と俺とは同期の桜 同じ防衛大学校の庭に咲く. 咲いた花なら散るのは覚悟 見事散りましょう国のため 2貴様と俺とは同期の桜 同じ防衛大学校の庭に咲く 血肉分けたる仲ではないが なぜか気が合うて別れられぬ 3貴様と俺とは同期の桜 同じ航空隊の庭に咲く あれほど誓ったその日も待たず なぜに死んだか散ったのか 4貴様と俺とは同期の桜 離れ離れに散ろうとも 花の都の靖国神社 春の梢に咲いて会おう
2曲目防衛大学校学生歌 海青し太平の灘 緑濃し小原の丘で 学びやはひかり輝き 行く手に波逆巻くも 丈夫は呼びかい集い 明日に勇気を誓い 夕べに祖国を思う 礎ここに築かん 新たなる日の本のため
3曲目 抜刀隊 1吾は官軍わが敵は天地容れざる朝敵ぞ 敵の大将たるものは古今無双の英雄で これに従う強者はともに剽悍決死の士 鬼神に恥じぬ勇あるも天の許さぬ反逆を 起こせし者は昔より栄しためしあらざるぞ 敵の滅ぶるそれまでは進めや進め諸共に 玉散る剣抜きつれて死する覚悟ですすむべし 2皇国の風ともののふはその身を守る魂の 維新このかた廃れたる日本刀の今更に また世に生ずる日の誉れ敵も味方も諸共に 刃のもとに下に死すべきに大和魂あるものの 死すべきときは今なるぞ人に後れて恥じかくな 敵の滅ぶるそれまでは進めや進め諸共に 玉散る剣抜きつれて死する覚悟ですすむべし 3前を望めば剣なり右も左もまた剣 剣の山に登らんは未来のことを聞きつるに 此の世において目のあたり剣の山に登るのも わが身のなせる罪業を滅ぼすためにあらずして 賊を征伐するがため剣の山も何のその 敵の滅ぶるそれまでは進めや進め諸共に 玉散る剣抜きつれて死する覚悟ですすむべし 4弾丸雨飛の間にも二つ無き身を惜しまずに 進む我が身は野嵐に吹かれて消ゆる白露の 果敢なき最後を遂ぐるのも忠義のために死する身の 死して甲斐あるものなれば死ぬるも更にうらみなし われと思わん人たちは1歩もあとへ引くなかれ 敵の滅ぶるそれまでは進めや進め諸共に 玉散る剣抜きつれて死する覚悟ですすむべし 5剣の光ひらめくは雲間に見ゆる稲妻か 四方に打ち出す砲声は天に轟く雷か 敵の刃に伏す者や弾に砕けて玉の緒の 絶えて果敢なく失する身の屍は積んで山をなし その血は流れて川をなす死地に入るも君のため 敵の滅ぶるそれまでは進めや進め諸共に 玉散る剣抜きつれて死する覚悟ですすむべし 6吾今ここに死なん身は君のためなり国のため 捨つべきものは命なりたとえ屍は朽ちるとも 忠義の為に死する身の名は芳しく後の世に 永く伝えて残るらん武士と生まれし甲斐もなく 義の無き犬といわるるな卑怯者とな謗られそ 敵の滅ぶるそれまでは進めや進め諸共に 玉散る剣抜きつれて死する覚悟ですすむべし
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