はい、こんにちは。今日は二講目ですね。前回は公安の話だったから、そういう政治的な話で続いていくのか、と思ったら、今日は秦の始皇帝の話です。流れも何もあったもんじゃないですね。でも、今日は単なる歴史の話じゃなくて、今ちょっとchariotの方でも話題になってる、アダルトチルドレンと関係付けて講義をしていきたいと思います。本当はこの話はMOONでやりたかったのですが、物語として成り立ちにくかったんで、コッチでやります。
生徒A「始皇帝って、アダルトチルドレンだったんですか?」はいはい、そう結論を急いではいけません。デス見沢が言っているように、アダルトチルドレン(以下AC)を拡大解釈すると、世界中でACでない人はいなくなってしまいます。始皇帝は、いわゆる「本物のAC」であったのではないか、という、あくまで私の歴史学的な推測であります。実は政治家にはACが多く、先日不適切な関係をゴマカすために他の国にミサイル撃った方も、確か親がアル中で「私はACであった」と言ってます。実際にACとしての治療も受けてます。ついでにロシアの大統領もアル中。
で、始皇帝の話に戻りましょう。彼は本名を政といいます。政が治めるから政治と言いますね。って今、そこのあなた、本気にしたでしょう。これは今私が思い付いたのです。でも、ひょっとしたら本当にそうかもしれません。話がソレますね。
始皇帝については、あなたたちは、たぶん学校の歴史の授業では「冷酷非道な鬼のような奴」と習ったと思います。あまり良い印象はないですね。実はこれは、歴史家の司馬遷と、後の歴史家達のせいなのです。そう、司馬遼太郎という名前のもとになった人ですね。ちなみに私は死ヴァで、全くの他人です。
司馬遷は、儒学者でした。で、始皇帝は、有名な「焚書坑儒」をやった人。学者仲間を惨殺した張本人ですから、当然良い書かれ方はしませんね。歴史ってのは、こういう風にあくまで誰かの「主観」で書かれているものですから、どんな歴史書を読む時にも、この点を注意しなければいけません。また、焚書坑儒についても、かなり誤解があります。歴史の授業では、自分だけを敬わせるために儒教(親を尊べ)が邪魔だった、と習ったと思いますが、それは後になって儒学者達が勝手に言ったこと。しかも、焚書と坑儒は別々の事件です。
焚書ってのは、別に儒教の本だけを燃やしたわけじゃなくて、単なる言論統制です。中国統一に批判する発言を取り締まっただけ。こんな話は今でもあるでしょう。まあ、始皇帝が儒教を嫌いだったのは本当なようですが(後述)、好き嫌いで中国統一は出来ませんね。また、坑儒ってのは、あとに始皇帝は不老不死の研究を始めるのですが、その時に学者たちがデタラメなことを皇帝に言って、しかも失敗した責任を言い訳して逃れようとする。今のマスコミお抱え心理学者みたいなもんです。で、怒った皇帝が、お前らみんな死ねって殺したのがこの事件。別に儒学者だから殺したわけじゃなく、殺した学者の中に儒学者が多かっただけのことです。やっぱり、学者として、言った事の責任はとってもらいたいと思います、私も。
で、本題のACの話ですが、始皇帝は子供の頃に親の愛情が足りなかったのか、という話ですが、始皇帝はそんなハンパなものじゃありません。はっきりいって、死ななかったのが不思議なくらい虐待されて育ちました。始皇帝の全身には火傷の跡があったといいますし、生き埋めにされたことも何回もあったようです(その後、始皇帝が生き埋めの刑を好んでやったのと関係あるかもしれない)。長い事人質の生活を送っていたので、母親がヒステリーになってたようですね。また、当時は人質を大事にする習慣もなかったので、他の人たちからも直接酷い目に合っていたようです。
また、始皇帝は、秦の王族の血をぜんぜん引いていなかった、という説があります。始皇帝の母親は歌姫で、先代の王=始皇帝の父親に見初められて妃となりましたが、そのときに既に始皇帝を身籠っていた、という説です。誰の子供かというと、その歌姫をかこっていた商人・呂不韋。まあ、王の子供の可能性もあるのですが、当時は遺伝子鑑定とかないですから、これは何ともいえません。また、これが虐待の原因の一つになっていたことも考えられます。親を尊べって言われても、これじゃ無理ですね。
で、運のいいことに、王が次々と死んでいって、のちの始皇帝・政は13歳で秦の王となり、人質から解放されました。まあ、13歳で政治はできないので、22歳までは、父親の疑いのあるさっきの商人・呂不韋が政治をします。22歳になってやっと名実ともに本当の王になれた政は、子供の時の虐待で当然バリバリの人間不信に陥ってますから、誰も信用しません。自分の居所すら部下に知らせません。自分の居所を誰かに知らせた者は、その場で死刑。
普通、そんなんじゃ部下使えないだろう、と思いますね。しかし、始皇帝の凄い所は、このバリバリの人間不信を有効に使って、中国統一までしてしまったことです。最初っから「部下は裏切るもの」と決めて雇っているのです。部下にはそれぞれ相互監視とスパイ、スパイにはさらにスパイ、さらにそのスパイ、というように、何重にも諜報網をかけています。で、ちょっとでも怪しい動きをした者はすぐに死刑。密告をすることすら危険でした。密告というのは、自分を利用して誰かを殺そうという事。始皇帝は、他人に利用される、ということを何より嫌ったのです。だから、スパイはお互いに全く面識のない者とした。まあ、スパイも信じてなかったでしょうから、スパイの報告は別のスパイを使って必ず何回も確認させたでしょうけど。ここまで徹底して人間不信を実行するのは、並の精神では出来ません。
こういうやり方で戦争もやっていくものだから、兵隊も自分の国を裏切れない。裏切ったら一族皆殺し。あ、言い忘れましたが、始皇帝は死刑といえば一族皆殺しでした。これは、残忍な性格だからではなく、残った家族から恨みを買うことを防ぐため。始皇帝は、現代の人間よりはるかに合理的なことを重んじる性格だったのです。いや、そういう性格になった、といった方が正しい。
それから、親に対してはどうだったか。22歳で実権を握るとすぐに、今まで事実上政治をやってきた、父親疑いの呂不韋に対して「お前何様のつもりで政治やってんのよ」という手紙を出します。呂不韋は始皇帝の性格を知っていますので、生き埋めにされるよりは、と自殺します。もちろん、始皇帝は最初っからこの男を殺すつもりでした。自分の父親の疑いがある男と言えども、いままで政治やってた者が裏切った場合、自分の命が危ないからです。
母親も政治にちょっかい出そうとしてきましたが、さすがに母親は殺しませんでした。そのかわり、永久に幽閉しましたけど。その時母親と浮気していた奴がいて、そいつが母親をそそのかしたらしいですね。そいつは当然一族(七族)皆殺し。
親ですらこうなのだから、ましてや他人は、と考えると、誰も裏切ろうとは思いませんよね。でも、これで中国統一が成り立ったのです。始皇帝の思想は、血脈の否定と完全な安全保障です。子供の頃の虐待の経験を生かした思想です。現代のACや、虐待の経験のある人にも、始皇帝の思想は何らかのヒントになると思います。
あと「皇帝」という言葉を作ったのは、文字通り始皇帝です。最初は「泰皇」という、一番偉い人という意味の古の称号を使う予定だったらしいのですが、始皇帝はこれに大地母神の配偶者、という意味の「帝」をくっつけて「皇帝」としました。天と地の夫婦、という感じですね。始皇帝の理想の夫婦像があったのでしょうか。でも、始皇帝の妻は何人かいたのでしょうけど、歴史上には出てきません。子供も信用してませんでした。秦は始皇帝の死後、わずか4年で滅びました。
始皇帝が自分の居場所を知らせないのは、死ぬまで続きました。結局、死ぬまで誰も信用しませんでした。
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