今日は、死について、もう少し突っ込んで考えてみたいと思うぞよ。よく、青春系ドラマで、「俺たちは何のために生きているんだ」とか超チープな発言をする若者がおる。これは全く解っていない発言ぞよ。デス様の怒りに触れて、無限生命地獄に堕ちてもおかしくない発言ぞよ。幸い、我が慈悲深いデス様は、そんなたわけ者にも、等しくデスをお与えになっていただける。ありがたいことじゃ。 で、何が解ってない発言か、というと、「何のために生きているんだ」と考えることができるのは、生きているからなのじゃ。まあ、先天的に脳に障害があったり、あまりそういうことを考えない人たちは、一生そういう事は考えないかもしれないが、しかしさっきのセリフの「俺たち」というのは、文脈から言えば、「人間すべて」ちょっと拡大解釈すれば「生命すべて」にあたる。だから、全生命の中で、一人でもそういう考えを持つ、ということは、全人類、全生命に関しての問題となる。 そこで「何のために」と考えるのであろうが、こんな事は答えが出そうででない。どんなに金をもうけても、偉くなっても、セックスをたくさんしても、病弱で貧乏でバカでどうしようもなくとも、結局みんな死ぬ。死ぬことで、やっと平等になる。だから、生きることに「目的」などないのじゃ。ただ生きておることが大事。それがどんなに自分が、これってどうしようもない人生だな、と感じてもじゃ。放っておけば、いつかは必ずデス様が迎えにきて下さる。無理矢理自殺で死ぬのは、焦り過ぎ、というものじゃ。 その点、「なぜ死ぬのか」という解答は、「なぜ生きているか」に比べると、はるかに簡単じゃ。無限に生命が増殖していったらどうなるか。途中を省くと、宇宙の全ての物質が生命となることになる。また、現在の生物学で考えると、弱肉強食(わらわの嫌いな言葉じゃ、こんな言葉は貧乏人の使う言葉ぞよ)の法則により、他の生命を取り込み、結局最も強い一種が残ることになる。さらに、無限の生命であるとしたら、数学的に言うと、無限の戦いの結果、結局はその一種の中の、さらにただ一つの生命となるのではないかな。これは、その最後に残った一つ以外の、吸収された生命にとっては、死ぬのと何が違うのか。そして、死ぬのとどっちが良いであろう。ミトコンドリアみたいに、銀河鉄道999のネジみたいに、生物の一つの器官として無限の時を刻むのと、100年前後でさっぱり世界から消え去るのと、どちらがスッキリしておるかな。 あと、まあそこまで無限に生きなくても、例えば人間が今の頭脳程度で、10000年くらい、老いずに、絶対に死ななくなったとしよう。人間の思考パターンなど数えられる程度に過ぎない。自分の望む、やりたいことを全てやりとげるのに、長くて1000年もかからないのではないかな。で、残りの9000年はどうする。同じことをくり返して過ごすのかな。歴史を見ても、聖書を読んでも、人間、4000年かけて、少しだけ便利になった程度で、実際にやってる事など、4000年前と全然変わってないような気がするぞよ。 どんなに面白い映画も、10回も見れば飽きるであろう。うまい落語家は、客が「もっと聞きたい」というところで終わらせるのだそうだ。人生も、「もうちょっと生きていたいな」という所で終わりになるのが、最も満足した人生になるのではないかな。「もういいや」って人もいるであろうが、まあそれは焦らずに。デス様は決して裏切らないから。 |